12月21日

 

いつの間にか時間はあり得ないほどに進んで、彼女と別れた。

でも彼女と別れた、という話は書けば書くほどにこの虚しさも思い出もいまおもう何もかもが褪せていくような気がしてならないからここでは書かない。

私は、葬式がすきだ。葬式に行くのがすきなのではなくて、葬式という文字列が。

というのをオズワルドの伊藤くんのnote見てて思った。

葬式とか、土葬とか、訃報とか、遺書とか、暮石とか、棺とか死ぬことに関する文字。何かしらが死なないと使わない単語。黄泉とかあの世とかファンシーなのよりもっと血生臭いやつ。霊安室とか。

思い返して見ると、こう思うようになったのは祖母の葬式に行ってからだ。前々回の春だ。

18年同じ家で生きた猫が死んだときは、おそらく私はまだ物心がついていなかった。

物心ついた自分に初めて訪れた死臭が魅力的にうつったのは、どうしてなんだろう。別に死にたいと強く願っているわけでも、みんな死んでくれと祈っているわけでもないけれど。

結局は死ぬってことをみんなもうちょっとわかっておいた方がいいような気がする。

 

だから私はアングラがすきで、寺山修司がすきで、『田園に死す』がすきで、「新しき仏壇買ひに行きしまま行方不明のおとうとと鳥」がすき。